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神社のあれこれ

ここでは、神道や当神社にまつわる さまざまなことについて紹介したいと思っています。神社には、日本の昔からの伝統文化や習慣、その土地の歴史を知る手がかりなどが残されています。それらを少しですが、ご紹介したいと思っています。

■ 神社一般・神道に関するあれこれ

神棚の祀り方 おついたち総 代 会服 忌 (喪中)のし袋の表書

■ 当神社に関するあれこれ

鎮 守 の 森三 林 古 墳 群神社の昔と今

 



神棚の祀り方

 神棚は氏神様などの神様を身近にお祀りするものです。神棚の前で家族が安らかで豊かに生活出来るように神様に祈念し、また日々の御加護に感謝の意をあらわします。

◆ 設置場所

・家の中で、明るく清らかな場所
・南向き、または東向きで、目線よりも高い位置


◆ 御神札の祀り方

   【三社造りの場合】

   

[ 中 央 ] 天照皇大神宮(お伊勢様)
[向かって右] 氏神様(当社は春日皇大神)
[向かって左] 他の崇敬神社

  【一社造りの場合】

   

[一番手前] 天照皇大神宮(お伊勢様)
[ そ の 次 ] 氏神様(当社は春日皇大神)
[一番後ろ] 他の崇敬神社

◆ お供えの仕方

神様へのお供え物を神饌(しんせん)と言いますが、神饌は通常は、米・酒・塩・水です。毎朝これらの神饌をお供えし、夕方にお下げします。これらをお供えする場合にもそれぞれに順番があり、その順番は以下になります。(基本的な神饌の並べ方は横一列ですが、スペースの都合で二列に並べても結構です)

【米・酒・塩・水をお供えする場合】

 

【米・塩・水をお供えする場合】

 

◆ 拝礼の仕方

拝礼の方法は神社でお参りするときと同様で、二礼二拍手一礼です。朝には神様に家族の無事健康などをお願いし、夕方には ご加護頂いたことに感謝の意を表します。

 


おついたち

 毎月1日は、多くの神社でたくさんの方がお参りをし、日々の健康、無病息災を神様に感謝し、これからも変わらず神様のご加護が頂けるよう祈願をします。これを「おついたちまいり」といいます。毎月ごとに変わらずお参りできるということは、身の健康があってこそです。これ程有難いことはありません。当神社では毎月1日朝8時より月次祭(つきなみさい)が執り行われます。ご都合のつく方は、ご一緒に拝殿に上がってお祓いを受けられてはいかがでしょうか?御祈祷料は必要ございませんのでお気軽な気持ちでどうぞお参り下さい。

 


総代会

 総代会とは、神職以外の人でその神社の維持に努める氏子・崇敬者の代表者の会のことを言います。当神社では、南池田・北池田の各町村から2~3名選任され、神社の祭礼にあたり その準備に協力したり境内の清掃などの奉仕活動を行って頂いています。お正月やお祭りの準備などはとても神職だけでは出来ませんので総代会の皆さんに協力をしてもらっています。長い年月の中で残念ながら諸々の事情でやむを得ず他の神社に合祀される神社がある中で、当神社がいまだにこの三林町の地において歴史を刻んでいられるのは総代会をはじめとした氏子・崇敬者の奉仕活動の賜物であるということにほかありません。

 


服忌(ぶっき)

 服忌とは、親族が亡くなったとき身内の者が喪に服することをいいます。「忌」とは、故人のお祀りに専念する期間をいい、神社や神棚への参拝を控えます。「服」は故人に対する哀悼の気持ちを表す期間のことをいいます。 戦前までは「服忌令」がその基準として定められておりました。地方による慣習の違いはありますが、現在では一般的に、父母で「忌」の期間が50日、「服」の期間が1年間と一番長くなります。
 従いまして、「忌」の期間である50日が過ぎれば、原則的には神事や神社にお参りをしても差し支えありません。親族が亡くなってから1年経たないと鳥居をくぐってはいけないということをよく耳にしますが、これはあくまでも俗説であって根拠の無いことになります。ちなみに、鳥居をくぐらないというのは神社の境内に入らないということを象徴的に表しているだけであり、鳥居をくぐらず横から境内に入れば大丈夫ということではありません。やむを得ない事情により「忌」期間に神社に参拝しないといけない場合は、参拝の前にお祓いを受けると良いでしょう。


<服忌令による忌と服の期間>

親 族
父 母 50日 13ヶ月
養 父 母 30日 150日
30日 13ヶ月
20日 90日
嫡子 20日 90日
養子 10日 30日
夫の父母 30日 150日
祖父母 30日 150日
同母方 20日 90日
曽祖父母 20日 90日
伯叔父母 20日 90日
同母方 10日 30日
兄弟姉妹 20日 90日
嫡孫 10日 30日
従兄弟(従姉妹)
甥姪
2・3日 7日

 


熨斗(のし)袋の表書き

 

 ご祈祷を受ける際には、幣帛(へいはく:神さまに奉献する物)の代わりとして金銭をお供えしますが、それを のし袋に入れてお供えする場合には、袋の表に「初穂料」「玉串料」「祈祷料」などと書くとよいでしょう。
 ちなみに初穂(はつほ)料とは、昔にその年に初めて収穫された稲穂を、神さまにお供えしていたことによります。また、玉串料とは、参拝や祈祷あるいは祭典に参列する時に、神前に榊の小枝(玉串)を捧げることから、表書きとして使用されるようになりました。 この玉串料という表書きは、慰霊祭などの霊祭や弔事の際にも使用できます。





 


鎮守の森

 鎮守とは一定の地区の土地や場所を守護することを言い、その守護する神様を鎮守神と言います。この神様を取り巻く森がすなわち鎮守の森になります。緑の少なくなった都会においても神社の境内には青々とした木々が茂っていることからもわかるように神社にとって森は非常に大切なものです。強風などから本殿などの建物を守るだけでなく、神霊の宿る御神体が山や森となっている神社も少なくありません。
 当神社でも境内を取り巻くように大きな木々が茂っており、そこに様々な鳥や動物、虫達が生きています。地域の人々の心安らげる場所として代々守られてきた大事なこの森を今後も大切にしていきたいものです。

 


三林古墳群

 当神社の本殿裏や参道の両脇には、現在確認できるだけでも19基の古墳があります。この古墳は「三林古墳群」と呼ばれています。大正時代に開墾のため48基の古墳が取り壊されたとの記録があり、もとは70基近くの古墳が存在していたことになり、市内でも非常に大きな規模の古墳群であると言えます。
 これらが造られた年代は、6世紀後半~7世紀前半で古墳時代の後期と考えられています。この中で本殿裏の古墳は、最もその規模が大きく立地などから考えて盟主的な存在である可能性が考えられます。神社の創建が神護景雲2年(768年)ですので、古墳が造られてから50~100年後に、神社が創建されたことになります。神道では人間が死ぬと祖神(おやがみ)となってその子供や家族を守る守り神になるとされています。
 この地に生きた私達の祖先の祖神様に対する厚い感謝の心が、この聖域に春日神社を創建する大きな原動力になったのではないでしょうか。

[参考] 和泉市教育委員会 三林古墳群 範囲確認調査報告書 2008年1月

 


神社の昔と今

 ここでは、昭和30年代から40年代の写真と現在とを比較しながら、境内の変遷と時間の流れを見ていきたいと思います。

◆ 手水舎の様子

      

手水舎と拝殿(右奥)の間には昔 松が植えられていましたが、今はありません。手水舎の右手にある忠魂碑(白く写っている石)が当時ははっきり見えていましたが、今は植木で隠れてしまっています。手水舎や燈篭は、ほとんど当時と変わりはありません。


◆ 玉福稲荷神社の様子 

      

 赤い鳥居は当時のものは現在残っていません。現在では鳥居の脇にブロックが置かれ、参道もコンクリートで整備されています。手前の石段は現在は左に少し沈んでしまっています。


◆ 二の鳥居と社務所の様子 

      

 二の鳥居とその脇の狛犬の様子は変わりませんが、社務所が新しく建て替えられています。また、社務所の前に燈篭が建てられました。二の鳥居の奥は表参道になりますが、現在のほうが木が覆うように茂っています。






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